
フロッタージュ(擦り出し)という手法を用いて,
都市の記憶や痕跡を写しとる現代美術家の岡部昌生氏。
80年代より広島の被爆の痕跡を作品化し,
2005年には広島市現代美術館で個展を開催。
旧日銀でもワークショップを行うなど,広島との関わりも非常に深い。
今回EXsite vol.6に参加,新作「土の記憶」を展示する。
3.11以降,岡部氏が向かう先は?
世界的アーティスト・岡部昌生が「過去/いま/未来」を独白する。
インタビュー・構成/ひろしまジン大学
岡部昌生×広島1986年秋,はじめて訪れた広島は強い陽射しの日だった。
79年パリ路上でフロッタージュ作品「都市の皮膚」の評価を受け,
86年に広島市現代美術館開設準備室からテーマ「ヒロシマ」の制作委託の声が掛かった。
広島の路上から都市の記憶を擦り出すという依頼には,
「都市は巨大な版である」という大きな視点の獲得があったからだろう。
しかし,広島を知らない人間がヒロシマを表現することへの重さ,
それを埋めるのに1年の時間を要した。
ヒロシマにつながる微かな記憶。
北海道に生まれ育った私にとって,
日本の東端の町にも及んだ戦争で,
3歳の時に焼き付いた「根室空襲」の光景を手繰り寄せ,
内面化することなしには,この街には向き合えなかった。
広島を訪れ,平和記念公園の美しい芝生や
5000本もの見事に繁る樹木から,わずか50センチ掘り下げると,
廃墟と化した都市が横たわることを知り,
これから『広島』で『ヒロシマ』を考え続け,
作り続けることの重さ,
美術によって生を問うということの大きさと巡り合わせを思った。
地勢図から見える広島は,
開いた手が海に触れている身体のような都市像。
抉られた傷口を癒すようにかさぶたが多い
再生していく身体のようにも感じる。
そこに抱かれる人々も,
ともにその傷の深さを忘れないのだろうと,
人とともに生成する都市を想った。
2004年春,9年間擦り続けた宇品駅プラットホームの遺構が
高速道路建設で消滅した。
私の問いのかたちの喪失だった。
その終わりが新たな始まりを生んだ。
市民による「岡部昌生展広島市民サポーター会議」が立ち上がり,
ここから生まれた4000点の作品展を実現すべく,
月に1回のワークショップを呼びかけた。
その1回目が旧日銀であり,
以後も継続して被爆建物をふくむ1700点のフロッタージュを実現させた。
これに北海道も連動して,炭鉱,製鉄,港湾,滑走路,トーチカなど
ヒロシマにつながる近代遺構を擦り出し採取した。
この2つのプロジェクトを合わせ,
旧日銀と広島市現代美術館を会場とする
「岡部昌生シンクロニシティ 同時生起」を2005年9月開催。
これら一連の市民とともにつくりあげた展覧会は,
2007年ヴェネツィアビエンナーレ参加につながる
広島での集大成とも言えるものだった。
岡部昌生×土の記憶旧宇品駅のプラットホームの消滅が「土の記憶」のはじまり。
プラットホームの時間と同じく100年ぐらいの時間を保持できるものを考えた時,
そのひとつが植物であり,それを育む土だった。
1センチの土になるには100年かかるという。
土は足元にある時間のカプセル,
手に触れる時間の感触。「AFTER UJINA」と「土の記憶」が,
土の力によって生まれた。
今回は,「土の記憶―ヒロシマ」(2011),
「AFTER UJINA―Beirut/Hiroshima Version」(2011),
「事後のイメージ―戦禍の瓦礫、埋立地の土」(2011),
「土の記憶―フクシマ」(2011),「
土の記憶―縄文にふれて」(2010)と,
フクシマ以後の「土の記憶」を基底とする
「事後/いま/予兆のイメージ」で構成する。
5つの場の底深い所に潜んでいるもの,
積層した時間に手を差し出すことで,
津波のあとの風景を連想させることによる拒絶感を超えたところを,
美術の力によって示したい。
今後は,ここに引き寄せられた5つの場の5つの「土の記憶」,
それをめぐる映像や,テキスト,派生する様々なものを携えて旅をする。
そこから生まれたものもまた抱えて旅の同行とする。
その始まりをここからしたい。
広島,札幌,東京,福島……へと。
岡部昌生×3.11『やはり,「忘れない」ということ。
三陸には大きな津波を忘れないとする碑があるという。
でも,忘れる,無視する,
造ってはならないところに造ってしまう。
《この「忘れない」ことと
すべきではない「選択しないこと」とは結びついていて,
今回の災害はそれをはっきりと見せた》と。』
昨年初夏,(北海道)北広島のスタジオでの会話で
港千尋さんはこう述べていた。
広島,長崎の原爆,第五福竜丸事件,
これらは外の核による受動的被害。
だが,ここから何を学んできたのか。
いま,福島第一原子力発電所の事故によって,
内側からの核の脅威に世界がさらされている。
原子力は制御不能のエネルギーであり,
それを「選択しないこと」の意思は,
惨禍を「忘れない」ことの意思だろう。
パリの古いユダヤ人街マレ地区の裏通りには,
ナチによる拉致の史実を刻む「追悼の銘板」が多く掲げられている。
《この学校の165名のユダヤ人の生徒たちが/
ナチのキャンプで/
虐殺された/
忘れることなかれ》
1996年厳冬の2月,フロッタージュ・アエログラムで
碑のことばを擦り取り
広島/ヒロシマへ送った。
「N’OUBLIEZ PAS忘れない。」東欧からアメリカ,
さらにフランスで生きることを選んだ
ユダヤ移民の娘として生まれたニドラ・ポーラーは,
個人の友情以上の使命を感じガイドを務めて,
私のこの手紙の展覧会のテキストにこう綴った。
「忘れてはならない。
“過去を忘れてはならないのは未来を忘れてはならない”からであることを」。

おかべ・まさお
1942年北海道根室市出身。
フロッタージュによる表現を77年よりはじめる。
パリ,イヴリ・シュル・セーヌに滞在(1979)
169点の「都市の皮膚」を制作。
「都市は巨大な版である」という感慨をえる。
80年代後半より広島の被爆の痕跡を作品化する作業をはじめる。
オーストラリア,ヌーサにおける
フロッタージュ・コラボレーション(1988)以来,
市民とのコラボレーション(共同制作)や
ワークショップを積極的に実施するほか,
国内外の各都市で制作・展覧会活動を展開している。
(旧日本銀行広島支店でも市民とのワークショップを開催している。)
2007年,ヴェネチアビエンナーレ日本館で
広島の被爆建物や痕跡を擦り取った作品を展示。
2011年にはその作品の一部が
MONA美術館(オーストラリア)コレクションされた。
震災後,ベイルートアートセンターの
「Image in the Aftermath 事後のイメージに」に
港千尋とのユニットで参加。
現地で「事後のイメージ―戦禍の瓦礫、埋立地の土」を制作。
現在,札幌大谷大学短期大学部教授。